何を信じる?どうして疑う?:信頼と不確かさについて哲学対話する授業実践例
はじめに:なぜ「信じる」と「疑う」を哲学するのか
日常生活において、私たちは様々な情報を得て、それを信じたり疑ったりしながら判断を下しています。特に現代社会では、インターネットやSNSなどを通じて膨大な情報が瞬時に入ってくるため、何を信じ、何を疑うべきかを見極める力がより一層求められています。
このような状況の中で、子どもたちが健全な情報判断能力を育むためには、「信じること」や「疑うこと」について深く考える機会を持つことが重要です。これは単なる情報の真偽を見分けるテクニックを学ぶだけでなく、「真実とは何か」「信頼とは何か」「証拠の役割は何か」といった哲学的な問いにつながるテーマでもあります。
小学校での哲学対話を通じて、子どもたちが自分自身の「信じる」や「疑う」の感覚に気づき、他者の多様な考えに触れ、論理的に考えながら判断していく力を育むことを目指します。本稿では、「信じる」と「疑う」をテーマにした哲学対話の具体的な授業実践例と、実施する上でのポイントをご紹介します。
哲学的な視点から「信じる」と「疑う」を捉える
哲学において、「信じること」(信念、信仰)と「疑うこと」(懐疑)は古くから重要なテーマです。
- 信じること: 何かを真実であると受け入れる心の働きです。これは根拠に基づいている場合もあれば、感情や経験に基づく場合もあります。何を、なぜ信じるのか。信じることに伴う責任とは何か。
- 疑うこと: 物事の真偽や妥当性について、安易に受け入れずに問い直す心の働きです。健全な懐疑は、物事を深く理解し、より確かな知識を得るために不可欠です。しかし、過度な懐疑は何も信じられなくなる可能性もあります。
子どもたちの対話では、こうした哲学的な定義を直接的に扱うのではなく、日々の生活の中での経験(友達の話、テレビの情報、うわさ話、親の言葉など)を手がかりに、「信じるってどういうことかな?」「疑うのはどんなとき?」「どうして人は信じたり疑ったりするのかな?」といった具体的な問いから出発し、共に考えていくことが有効です。
授業実践例:「不思議な箱」
この実践例では、子どもたちが実際に「信じる」と「疑う」の状況を体験し、そこから問いを立てて対話を深めることを目指します。
対象学年: 小学3年生〜6年生(問いかけや導入の工夫で低学年でも可能)
準備物: * 蓋つきの箱(中が見えないもの) * 箱の中に入れる「何か」(子どもが驚くような、少し変わったもの。例:大きな石、変わった形の野菜、見たことのないおもちゃなど。ただし、危険なものは避ける) * 模造紙、付箋、ペン
授業の進め方(例:45分〜60分):
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導入(10分):
- 教師が「今日はみんなに、この不思議な箱の中身を当ててもらいます」と言い、箱を見せます。
- 「この箱の中には、あるものが入っています。私はそれが何かを知っていますが、みんなには教えません。みんなは、私が言うことをヒントに、中身を想像して考えてください。」
- 教師が箱の中身について、いくつかヒントを出します。このヒントは、一つは本当に箱の中身に関する真実の情報、もう一つは全く異なる虚偽の情報(または曖昧な情報)を混ぜるのがポイントです。(例:本物のヒント「それは丸い形をしています。」、偽のヒント「それはとても重いです。」、または曖昧なヒント「それは世界中で愛されています。」)
- 子どもたちに、教師のヒントを聞いて、箱の中身を想像させます。「何だと思いますか?」「どうしてそう思いましたか?」と問いかけます。
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問いの生成(15分):
- 子どもたちから出た様々な「予想」とその根拠(教師のヒント、自分の知識、友達の意見など)を模造紙に書き出します。
- ここで、「先生の言ったヒント、全部信じた人?」「このヒントは本当かな?って思った人?」「どうしてこのヒントは信じられたけど、こっちは信じられなかったの?」などと問いかけます。
- 子どもたちの発言から、「信じる」「疑う」という言葉が出てくるように促し、それらをキーワードとして模造紙の中心に書きます。
- 子どもたちに「今の活動で、みんなが『あれ?』って思ったことや、『もっと知りたいな』って思ったことを、問いの形にして付箋に書いてみましょう」と投げかけます。(例:「どうして先生はほんとのことを言わなかったの?」「信じるってどういうこと?」「うたがうのはわるいこと?」「どうしたらほんとのことがわかるの?」「みんなが言ってたことも信じていいの?」など)
- 出された問いを模造紙に貼り、似た問いをまとめます。対話したい問いを一つ(または複数)選びます。
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対話の展開(20分):
- 選ばれた問い(例:「どうしたらほんとのことがわかるの?」)について、対話を始めます。
- 子どもたちの発言を丁寧に聞き、「〇〇さんは〜という理由で△△だと思ったのですね。」と確認したり、「〜と言いましたが、それについてどう思いますか?」と他の子どもに問いかけたりしながら、考えを深めていきます。
- 想定される対話例:
- 子A:「先生が言ったことだから本当だと思う。」
- 教師:「先生の言うことなら何でも本当かな?どうしてそう思うの?」
- 子B:「友達が『あれだよ』って言ってたけど、もしかしたら間違ってるかもしれない。」
- 教師:「友達の言うことを疑うのはどんなとき?どうしてそう思うの?」
- 子C:「自分で見てみないと分からない。」
- 教師:「『自分で見る』ことができないときは、どうしたらいいかな?」
- 子D:「テレビで言ってたことは信じる。だってニュースだから。」
- 教師:「ニュースならいつも本当?間違っていることもある?」
- 子E:「たくさんの人が言ってることは本当っぽい。」
- 教師:「もし、たくさんの人が間違ったことを信じていたらどうなる?」
- 様々な意見が出尽くすまで、対話を続けます。問いが深まったり、新しい問いが出てきたりしたら、それを拾い上げても良いでしょう。
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まとめ(5分):
- 今日の対話で気づいたこと、考えたこと、難しかったことなどを一人ずつ簡単に発表してもらいます。
- 「信じること」と「疑うこと」は、どちらか一方だけではなく、両方が大切であること。すぐに信じたり、何でもかんでも疑ったりするのではなく、立ち止まって考えることの重要性などを、子どもたちの言葉を借りながら確認します。
- 箱の中身を公開し、なぜあのヒントを出したのかを説明します。
実践のためのポイントと注意点
- 安全な場づくり: どんな意見も否定されない、安心して発言できる雰囲気を作ることが最も重要です。教師は、子どものどんな発言も真摯に受け止め、評価せずに聞き役に徹します。
- 教師の役割: ファシリテーターとして、子どもたちの発言を促し、問い返しによって考えを深める手助けをします。自分の考えを押し付けたり、正解を示したりしないように注意します。
- 問いの選び方: 子どもたち自身が関心を持った問いを選ぶことで、主体的な対話が生まれます。問いはシンプルで、答えが一つではないものを選びます。
- 時間の使い方: 対話が盛り上がっている場合は、多少時間を延長しても良いでしょう。しかし、飽きてきたり、堂々巡りになったりしている場合は、思い切って切り上げる勇気も必要です。続きはまた別の機会に、としても良いでしょう。
- 対象学年への配慮: 低学年であれば、より具体的な日常の出来事(例:友達の「〜だよ」という言葉、絵本の中の出来事)を例に挙げたり、問いをより単純にしたりする工夫が必要です。高学年であれば、ニュースやインターネットの情報など、少し抽象的な話題にも広げられます。
- 評価について: 哲学対話は、知識の習得や正解を求めるものではありません。子どもたちが自分の頭で考え、他者と対話し、多様な意見に触れるプロセス自体に価値があります。評価は、知識の定着ではなく、思考プロセスや対話への参加姿勢などを多角的に捉えることが望ましいです。
想定される子どもの反応と対話の例(補足)
「どうしたらほんとのことがわかるの?」という問いに対し、以下のような意見が出る可能性があります。
- 「自分でやってみる」
- 「他の人にも聞いてみる」
- 「本で調べる」
- 「先生に聞く」
- 「インターネットで調べる」
- 「何度も確かめる」
これらの意見に対し、教師は「自分でやってみれないことは?」「たくさんの人が違うこと言ったら?」「本にも間違ったこと書いてある?」「先生が間違ってたら?」「インターネットの情報は全部ほんと?」などと問い返し、一つ一つの方法の限界や、複数の方法を組み合わせることの重要性などに気づかせることができます。
成功事例と失敗事例から学ぶ示唆
成功事例: 導入の「不思議な箱」が子どもたちの興味を引きつけ、たくさんの疑問や考えが引き出された事例があります。「先生でも間違えるの?」「うわさ話は信じちゃダメなの?」など、当初想定していなかった問いが子どもたちから出て、活発な対話につながりました。このとき、教師が子どもの問いを丁寧に拾い上げ、どの問いについて話したいかを子どもたち自身に決めさせたことが、主体的な対話を生む鍵となりました。
失敗事例: 教師が「このヒントは本当で、こっちは嘘です」という種明かしを導入段階で早くやりすぎてしまい、子どもたちが「信じる/疑う」という行為そのものについて深く考える前に、正解探しになってしまったケースがあります。また、ある意見に対し、教師が意図せずとも「それはちょっと違うかな」という否定的なニュアンスを出してしまい、その後、子どもの発言が減ってしまったケースも報告されています。失敗から学べることは、教師は答えを知っている立場ではなく、あくまで子どもたちと共に考える探求者であること、そして何よりも対話の「安全な場」を守ることに徹することの重要性です。
多忙な現場での取り入れやすさ
この実践例は、国語科の「話し合うこと」、道徳科の「真実の探究」「正直」「情報の扱い」、総合的な学習の時間など、様々な教科や領域に関連付けて実施することが可能です。単元や授業の導入として短時間(15分〜20分程度)で実施し、生まれた問いをその後の学習活動につなげることもできます。また、「不思議な箱」のような大がかりな準備が難しい場合は、写真や短いニュース記事、簡単なクイズなどを提示して、そこから「信じる/疑う」に関する問いを引き出すなど、教材を工夫することで、多忙な現場でも手軽に取り入れることができるでしょう。
まとめ
小学校で「何を信じる?どうして疑う?」というテーマで哲学対話を行うことは、子どもたちが情報の渦の中で主体的に考え、判断していくための重要な基礎力を育む機会となります。「真実とは何か」「信頼とは何か」といった、すぐに答えの出ない問いについて、友達や教師と共に考えを巡らせるプロセスは、子どもたちの「考える力」「問いを立てる力」「対話する力」を育む豊かな学びとなるはずです。ぜひ、皆さんのクラスでも、子どもたちとの「信じる」と「疑う」を巡る哲学対話に挑戦してみてください。