「見えるもの、見えないもの」ってなんだろう?:子どもの認識世界を探る哲学対話
見えるものと見えないもの、子どもたちの素朴な疑問から哲学対話を始める
子どもたちは日々、様々なものと関わりながら世界を認識しています。その中には、触れたり見たりできるものもあれば、そうでないものもあります。「空気は見えないけど、どうして吸えるの?」「心ってどこにあるの?」「考えは見えないけど、どうやって生まれるの?」といった、見えないものに関する素朴な疑問は、子どもたちの尽きない探求心の現れです。
これらの疑問は、哲学的な問いへと繋がります。存在とは何か、認識とはどのように行われるのか、目に見えないものにはどのような価値があるのか。こうした問いについて子どもたちと共に考えることは、彼らの思考力を深め、多様な存在のあり方に気づく機会となります。ここでは、「見えるもの、見えないもの」をテーマにした哲学対話の授業実践例をご紹介します。
授業実践例:身近な「見える」「見えない」から問いを立てる
この実践は、身の回りの具体的なことから出発し、徐々に抽象的な概念へと議論を広げていくことを目指します。特別な教材は不要で、普段の教室環境で実施できます。
1. 導入:見えるもの/見えないものを挙げてみよう(10〜15分)
- 準備物: ホワイトボードまたは模造紙、ペン、付箋(任意)
- 進め方:
- 教師はまず、「みんなの周りには、色々なものがありますね」と切り出します。
- 「さあ、ここで先生が見えるものと見えないもの、二つのグループに分けてみたいと思います。みんなが知っているものの中で、目で見えるものを言ってみてください。」と問いかけ、子どもたちから出たものをホワイトボードの片側にリストアップしていきます。(例:机、椅子、本、友達、太陽、チョークなど)
- 次に、「では、目では見えないけど、みんなが『あるな』と感じるものはありますか?」と問いかけ、もう片側にリストアップします。(例:空気、風、音、匂い、気持ち、考え、痛み、時間、夢など)
- ポイント: 低学年の場合は具体的なもの、高学年の場合は抽象的なものも自然に出てくるでしょう。どんな意見も否定せず、「なるほど、それは見えないけど感じるね」などと肯定的に受け止めます。
2. 問いの設定:「見える」「見えない」は何が違う?(5分)
- 導入で出たリストを見ながら、本日の哲学対話の問いを設定します。子どもたちの興味やリストの内容に応じて、以下のような問いが考えられます。
- 「どうして、見えるものと見えないものがあるんだろう?」
- 「『見えないけど、ある』って、どういうことだろう?」
- 「『見えること』と『あること』は、同じかな?違うかな?」
- 「心は見えないけど、みんな『ある』って思う?それはどうして?」
- 「『見えないもの』の中で、みんなが大切だと思うものはあるかな?」
- ポイント: 問いは一つに絞ると議論が深まりやすいです。子どもたちが最も関心を持った問いを選んだり、子どもたち自身に問いを選ばせたりするのも良い方法です。今回は例えば、「『見えないけど、ある』って、どういうことだろう?」という問いを設定したとします。
3. 対話の展開(20〜30分)
- 進め方:
- 設定した問いをみんなで確認します。
- 「この問いについて、みんなが今思っていることを自由に話してみましょう。どんな考えでも大丈夫です。友達の意見をよく聞いて、自分の考えと比べてみるのも面白いですよ。」と伝え、対話を開始します。
- 教師はファシリテーターとして、子どもたちの発言を促し、整理し、問いを深める役割を担います。
- 「〇〇さんは『空気は見えないけど、吸えるからあると思う』と言っていますね。△△さんはどう思いますか?」
- 「『気持ち』が見えないけどある、という意見が出ました。気持ちが『ある』って、どういうことで分かるのかな?」
- 「□□さんは『考えは見えないけど、頭の中にある』と言っています。頭の中に『ある』って、どういう感じなのかな?」
- 「『夢』が見えないけどある、という意見が出ましたね。夢って、『ある』ことと『ない』ことの間みたい?どうでしょう?」
- 必要に応じて、なぜそう思うのか(根拠)を尋ねたり、異なる意見を提示したりします。
- 「〜という意見と、〜という意見が出ましたね。これは何が違うのかな?」
- 「もし、空気や気持ちが全く『ない』としたら、どうなるかな?」
- 想定される子どもの反応例:
- 低学年:「空気は鼻から吸うからある。」「お母さんが怒っている顔を見れば、気持ちがあるのが分かる。」「お腹が痛いのは見えないけど、痛いからある。」
- 高学年:「心は脳の働きだから、脳を見れば一部分かるかも。」「友情は見えないけど、友達と助け合うことで『ある』と感じる。」「考えは言葉にすると見えるようになる。」「目に見えないものの方が、その人の本当の価値だったりするんじゃないかな。」
- ポイント: 子どもたちの言葉を大切に拾い上げ、言葉の曖昧さや多義性にも気づけるように促します。例えば、「ある」ということには「存在する」だけでなく、「持っている」「感じる」「〜の状態である」など様々な意味があることに気づくかもしれません。正解を教えるのではなく、多様な考え方や、一つの概念にも様々な側面があることを一緒に探求する姿勢が重要です。
4. まとめと振り返り(5〜10分)
- 対話の中で出た様々な意見や問い、気づきを簡単にまとめます。
- 「今日の哲学対話を通して、どんなことを考えましたか?」「新しく気づいたことはありますか?」「友達の意見を聞いて、自分の考えと違うなと思ったところはありますか?」などと問いかけ、振り返りを促します。
- ポイント: 全員が発言する必要はありませんが、もし時間があれば、一人ずつ簡単に感想を述べる機会を設けるのも良いでしょう。哲学対話の時間が楽しかった、難しかった、友達の考えに驚いたなど、率直な気持ちを共有できると、心理的安全性が高まります。
実践におけるポイントと注意点
- 安全な場の確保: どんな意見も受け入れられる、安心して話せる雰囲気づくりが最も重要です。発言内容の評価ではなく、発言する勇気や、友達の話を真剣に聞く態度を称賛します。
- 教師はファシリテーター: 教師自身の意見を押し付けたり、結論を急いだりしないように注意します。子どもたちの言葉に耳を傾け、対話の流れを見守り、必要に応じて問いを投げかけたり、話題を整理したりすることに徹します。
- 問いのレベル設定: 子どもたちの発達段階に合わせて、問いや扱う概念の抽象度を調整します。迷う場合は、より具体的な問いから始めるのが安全です。
- 時間の制約: 授業時間や子どもの集中力に応じて、活動時間を調整します。短時間でもポイントを絞って対話を行うことは可能です。
- 意見の対立への対応: 意見が対立した場合、「そういう考え方もあるね」「どうしてそう思うのかな?」と、異なる視点があることを認め、理由を聞くことで対話を深めます。人格攻撃や嘲笑は許されないことを事前に伝えておきます。
成功事例と失敗事例から学ぶ示唆
成功事例:
- 子どもたちが普段は考えたこともなかった「見えないもの」の存在や価値について、真剣に考え、自分の言葉で表現する姿が見られた。
- 互いの多様な意見に耳を傾け、異なる考えがあることを自然に受け入れる雰囲気が生まれた。
- 「心って本当にあるのかな?」「考えってどこにあるんだろう?」といった、対話後も続くような本質的な問いが子どもたちの中から生まれた。
失敗事例:
- 問いが抽象的すぎて、子どもたちが何を考えて良いか分からず、沈黙が多くなった。
- 一部の子どもだけが話し、他の多くの子は聞き役に回ってしまった。
- 話題が脱線し、問いから大きく外れてしまった。
- 特定の強い意見を持つ子に引きずられ、他の子が発言しにくくなった。
学べる示唆:
失敗事例からは、事前の問いの検討、全員が発言しやすいように工夫する(ペアワークを取り入れる、発言の機会を平等にする)、脱線しそうになったら優しく問いに戻す、多様な意見を引き出すファシリテーション技術の重要性が再確認できます。特に小学校低学年では、具体的な体験や例を結びつけられる問いかけが効果的です。また、一度に多くを求めすぎず、「今日は一つの面白い考えに出会えたね」といった小さな成功体験を積み重ねることも大切です。
多忙な現場でも取り入れやすい工夫
- ショート哲学対話: 授業の冒頭や終わりに5分〜10分程度で、一つの身近な問い(例:「今日の給食の『美味しい』って、何が見えないけどあるんだろう?」)について短く意見交換する。
- 「今日の問い」コーナー: 教室に問いを掲示し、休み時間などに自由に見たり、付箋に自分の考えを書いて貼ったりできるようにする。
- 既存の授業と連携: 国語科の物語文や道徳科の題材、生活科や総合的な学習の時間など、既存の学習内容に関連する哲学的な問いを設定し、一部を対話の時間に充てる。
まとめにかえて
「見えるもの、見えないもの」というテーマは、物理的な世界だけでなく、内面世界や他者との関係、社会の仕組みなど、様々な側面に繋がっています。この哲学対話を通して、子どもたちは自分の認識の枠組みに気づき、見えないものの中にも確かに存在する価値や、多様な存在のあり方について思いを巡らせる機会を得るでしょう。そして、それは子どもたちの「考える力」「問いを立てる力」「対話する力」を育む大切な一歩となると考えられます。ぜひ、身近なところから哲学対話を取り入れてみてはいかがでしょうか。