子どもたちと考える倫理:身近な事例で「よいこと」「わるいこと」を議論する哲学対話
はじめに:なぜ小学校で「よいこと」「わるいこと」を哲学的に考えるのか
子どもたちが社会の一員として成長する過程で、「よいこと」と「わるいこと」の区別や判断は不可欠な要素です。これは道徳教育の中心的なテーマでもあります。しかし、既存の規範を単に教え込むだけでなく、なぜそれが「よい」とされ、なぜそれが「わるい」とされるのかを子どもたち自身が問い、深く考える機会を持つことは、主体的な倫理観や批判的思考力を育む上で非常に重要です。
哲学対話は、このような倫理的な問いに対して、多様な視点から考え、互いの意見に耳を傾け、共に探求する有効な方法です。小学校という発達段階の子どもたちが、身近な出来事をテーマに「よい」「わるい」について議論することは、画一的な答えがない問いに向き合い、自らの考えを言葉にし、他者の考えを理解する貴重な経験となります。この対話を通して、子どもたちは規範の背景にある理由や、状況による判断の多様性、そして自分自身の価値観について気づきを得ていくことが期待できます。
哲学対話で「よいこと」「わるいこと」を考えることの意味
「よいこと」「わるいこと」についての哲学対話は、単にルールを守る大切さを確認する場ではありません。「なぜこのルールがあるのだろう」「この状況では、本当にこの行動が一番よいのだろうか」「同じ『わるいこと』でも、どうして重さが違うのだろう」といった問いを、子どもたちが自ら立てたり、教師が提示したりしながら進めます。
このプロセスでは、以下のような力が育まれます。
- 批判的思考力: 与えられた基準を鵜呑みにせず、「なぜそうなのか」を問い直す力。
- 多角的な視点: 同じ出来事でも、人によって見方や感じ方が異なることを理解する力。
- 論理的思考力: 自分の判断の根拠を明確にし、筋道を立てて説明する力。
- 対話力: 他者の意見を尊重し、自分の考えを分かりやすく伝える力。
- 倫理的感性: 他者の立場に立って考えたり、複雑な状況における判断の難しさを感じ取ったりする力。
実践事例:身近な事例を基にした哲学対話の進め方
ここでは、小学校で実際に取り入れやすい、身近な事例を使った哲学対話の進め方を紹介します。
テーマ例: 「友達の消しゴムを勝手に借りて、返すのを忘れてしまった」
これは多くの小学校で起こりうる、子どもたちにとって身近で理解しやすい事例です。
1. 事例の提示(導入)
- 短いお話、絵、簡単なスキット(先生や数人の児童で演じる)など、子どもたちが情景をイメージしやすい形で事例を提示します。
- 例: 「たかしくんは、隣の席のゆうきくんに『消しゴム貸して』と聞かずに、机の上にあった消しゴムを勝手に使いました。そのまま授業が終わって、たかしくんは消しゴムを自分の筆箱に入れてしまいました。ゆうきくんは授業中に消しゴムがなくて困っていましたが、たかしくんが勝手に使ったことには気づいていません。」
2. 問いの設定
- 事例を提示した後、哲学的な問いを投げかけます。問いは一つだけでなく、いくつかの角度から考えることができるように設定すると、対話が深まりやすくなります。
- 例:
- 「たかしくんのしたことは、『よいこと』かな、『わるいこと』かな?」
- 「もし『わるいこと』だとしたら、それはどうしてそう言えるのだろう?」
- 「『わるいこと』だとして、それはどのくらい『わるい』ことなのだろう?(少しだけわるい? とてもわるい?)」
- 「もし、たかしくんがわざとでなく、うっかり返すのを忘れてしまったとしたら、どう思う?」
- 「ゆうきくんが気づいていない、という事実は、たかしくんのしたことの『わるさ』に関係するかな?」
- 例:
3. 対話の開始と進行
- 子どもたちが問いについて自由に考え、発言できる雰囲気を作ります。円座になる、発言のルール(人の話をさえぎらない、否定的な言い方をしないなど)を確認すると良いでしょう。
- 教師はファシリテーターとして、以下の役割を担います。
- 傾聴と受容: 子どものどんな意見も頭ごなしに否定せず、「〇〇さんは、~と考えたのですね」と受け止めます。
- 明確化: 子どもの発言で曖昧な点を「それはどういう意味かな?」「もう少し詳しく教えてくれる?」などと問い返し、みんなが理解できるようにします。
- 深掘りの促進: 「なぜそう思うの?」「他に同じように思う人はいるかな?」「反対の考えの人はいるかな?」などと問いかけ、思考を深めます。
- 多様な視点の提示: ある特定の意見に偏ってきた場合、「もし、ゆうきくんがその消しゴムをどうしても使いたかったとしたら、どうだろう?」「借りる前に一言聞くのと、勝手に使うのでは、何が違うのだろう?」など、別の角度からの問いを投げかけます。
- 沈黙を恐れない: 子どもたちが考えている時間も大切にし、すぐに答えを求めません。
4. 対話の焦点の当て方
「よいこと」「わるいこと」を考える際に、以下のような視点を意識すると議論が深まります。
- 意図: 行動した人の「つもり」「理由」。
- 結果: その行動によって実際に起こったこと、相手がどうなったか。
- 約束・ルール: 事前に決められていたこと、社会のきまり。
- 感情: 行動した人、された人、周りの人がどう感じたか。
- 状況: その時の周りの環境や特別な事情。
- 普遍性: いつ、どこでも同じように言えることか。
例えば、上記の消しゴムの事例では、「たかしくんの意図は悪くなかったかもしれない」「でも、結果としてゆうきくんを困らせてしまった」「勝手に使うのは約束(または暗黙の了解)違反だ」「もし気づいたらゆうきくんは悲しいだろう」など、様々な視点から「わるいこと」である理由や、その「わるさ」の程度について考えることができます。
5. まとめ方
哲学対話では、必ずしも「これこそが正解」という結論を出す必要はありません。むしろ、多様な意見が出たこと、一つの出来事についても様々な考え方があることを確認することが重要です。
- 「今日の対話で、みんながどんなことを考えたか、少しずつ話してみましょう。」
- 「〇〇さんの考えは、□□という理由があって面白いと思いました。」
- 「最初は同じ考えだったけれど、△△さんの話を聞いて少し違うようにも思えてきた、という人はいますか?」
- 「今日考えた『よいこと』『わるいこと』について、これからも色々な場面で考えてみてください。」
考えたプロセスや、気づき、疑問として残ったことを共有し、対話を終えることが大切です。
実践のための準備とステップ
- 事例選び: 子どもの生活経験に近い、具体的で分かりやすい事例を選びます。ただし、個人的なトラブルに直結するような事例は避け、あくまで一般的な例として扱う配慮が必要です。一つの事例から多様な視点が出せるものが理想的です。
- 場の設定: 子どもたちがリラックスして話しやすいように、円座になる、机を片付けるなど、物理的な環境を整えます。
- 問いの準備: どのような問いを投げかけるか、事前にいくつかパターンを考えておきます。ただし、対話の流れによっては予定外の問いが出ることもあります。
- 教師の心構え: 教師自身が「よいこと」「わるいこと」に対する明確な答えを持っているとしても、それを子どもに押し付けたり、誘導したりしないことが最も重要です。あくまでファシリテーターとして、子どもたちの思考と対話を支援する立場に徹します。
- 時間の目安: 初めは15分~20分程度の短い時間から始めると良いでしょう。慣れてくれば、30分~40分と時間を延ばすことも可能です。
対象と想定される子どもの発達段階への配慮
- 低学年: 具体的な事例や登場人物の気持ちに焦点を当て、「~すると、どんな気持ちになるかな?」といった共感を引き出す問いかけが有効です。絵や人形を使うのも良いでしょう。単純な善悪の区別から、少しずつ「なぜそうなのか」を考える導入を行います。
- 中学年: 複数の視点から考えることができるようになります。意図や結果、状況といった複数の要素を組み合わせて考える問いかけを増やします。簡単なルールや社会的なきまりとの関連についても触れ始めます。
- 高学年: より抽象的な概念(約束、公正、責任など)についても議論が可能になります。複数の事例を比較したり、複雑な状況における判断の難しさについて深く掘り下げたりする対話に挑戦できます。社会的なルールや法律の「なぜ」についても問いを広げられます。
実践におけるポイントと注意点
- 安心・安全な場の確保: どんな意見でも安心して言える雰囲気作りが最優先です。他者の意見を馬鹿にしたり、否定したりする言動は厳禁であることを徹底します。
- 「正解」を求めない: 哲学対話の目的は、多様な考えに触れ、思考のプロセスを体験することです。唯一絶対の正解にたどり着く必要はありません。教師が「答え」を提示しないことが重要です。
- 教師は聴き手に徹する部分も作る: 教師が話しすぎると、子どもたちの思考や発言の機会を奪ってしまいます。子どもたちの声にじっくり耳を傾ける時間を大切にします。
- 感情的な対立への対処: 意見が対立し、感情的になりそうな場合は、「今は〇〇さんの考えを聞いている時間だよ」「一度、冷静になって考えてみよう」などと介入し、対話を建設的な方向に修正します。
- 日常との接続: 対話で考えたことを、日々の学校生活や友達との関わりの中で意識できるよう、折に触れて振り返りの機会を持つと、学びが定着しやすくなります。
想定される子どもの反応や対話の例
- 多様な意見:
- 「たかしくんのは『わるいこと』だよ。だって、勝手に使ったらいけないって習ったもん。」(ルールからの判断)
- 「でも、うっかりだったなら仕方ないんじゃない? わざとじゃないんでしょ?」(意図への着目)
- 「ゆうきくんが気づいていないなら、誰にも迷惑かけてないから、大した『わるいこと』じゃないと思うな。」(結果への着目)
- 「たとえ気づいていなくても、『借りる』っていう約束をやぶってるから、やっぱり『わるいこと』だよ。」(約束への着目)
- 「もし自分が消しゴムなくて困ったら嫌だから、されたら嫌なことはしない方がいいと思う。」(相手の気持ちへの想像)
- 対話が深まる例:
- Aさん: 「勝手に使うのは『わるいこと』。許可が必要だから。」
- 先生: 「Aさんは『許可が必要だからわるい』と考えたのですね。ありがとうございます。 Bさんはどうですか?」
- Bさん: 「私も『わるいこと』だと思うけど、使ってすぐに返したなら、まだそんなに『わるくない』かも。」
- 先生: 「Bさんは、その後の行動によって『わるさ』が変わると考えたのですね。面白い考え方ですね。では、Cさんはどうでしょう? 勝手に使うことそのものが『わるい』のか、それともその後の行動も『わるさ』に関係するのか、どう考えますか?」
- 対話が止まってしまう例:
- 子どもたち: (沈黙)
- 先生: 「難しいかな? どんなことでも良いですよ。ちょっと思ったことでも。」
- 先生: 「さっき〇〇さんが『△△だからわるいと思う』と言ってくれましたが、それについてどう思いますか?」など、特定の子どもの発言に戻ったり、視点を変える問いを投げかけたりして促す。
成功事例と失敗事例、そこから学ぶこと
成功事例:
- 一つの身近な事例から、子どもたちの中から多様な視点(ルール、気持ち、状況、意図など)からの意見が自然と引き出された。
- 異なる意見を持つ友達の話にも真剣に耳を傾け、なぜそう考えるのかを尋ね合う姿が見られた。
- 初めは単なる善悪二元論だった考え方が、対話を通して「状況によって違うかも」「色々な考え方があるんだな」といった気づきにつながった。
- 対話後、日常生活の中で同様の場面に遭遇した際に、「これって、前に考えた〇〇のことかな?」と振り返ったり、友達と話し合ったりする姿が見られた。
失敗事例:
- 特定のリーダー的な子どもばかりが発言し、他の多くの子どもが黙ってしまった。
- 教師が意図する方向へ誘導してしまい、子どもたちの自由な発想が制限されてしまった。
- 事例が難しすぎたり、子どもたちの経験からかけ離れていたりして、意見が出にくかった。
- 意見の対立が感情的になり、収拾がつかなくなってしまった。
そこから学ぶこと:
- 問いと事例選びの重要性: 子どもたちの興味を引き、かつ多角的な議論を促す問いと事例を設定することが、対話の成功の鍵を握ります。難しすぎず、簡単すぎず、子どもたちのリアルな生活とつながっているかがポイントです。
- ファシリテーションの技術: 教師の聞き方、問いかけ方、場をまとめる力が対話の質を大きく左右します。一方的な指導ではなく、あくまで伴走者としての役割を意識することが重要です。
- 日々の関係性: クラスに安心できる関係性が築けているかどうかが、子どもたちが自由に発言できるかどうかに影響します。日頃から、互いを尊重し合う学級づくりを心がけることが基盤となります。
- 目的の再確認: 「正しい答えを見つけること」ではなく、「共に考え、多様な考えに触れること」が目的であることを、教師自身が常に意識し、子どもたちにも伝えることが大切です。
多忙な現場でも取り入れやすい工夫やヒント
小学校の現場は非常に多忙です。哲学対話を特別に時間を取って行うのが難しい場合でも、工夫次第で日常的に哲学的な思考を取り入れることができます。
- 「隙間時間哲学」: 朝の会や帰りの会、給食の時間など、ちょっとした時間を使って、短時間(5分〜10分程度)で一つの問いについて考えたり、話し合ったりする時間を持つ。
- 「今日の〇〇」: 新聞記事やニュース、子どもたちの間で起こった出来事(個人的なトラブルは避け、一般化できるもの)など、「今日、こんなことがあったけれど、これってどう思う?」と問いを投げかける。
- 道徳や学級活動との連携: 道徳の時間のテーマや、学級で話し合うべき課題について、哲学対話の手法(問いを立てる、理由を尋ねる、多様な意見を出し合う)を取り入れて考える。
- ペアやグループでの短い対話: まずは隣の友達や少人数のグループで問いについて考え、簡単に意見を共有する活動から始める。
- 問いかけの日常化: 教師が日頃から子どもたちに「なんでそう思うの?」「もし〇〇だったら、どうかな?」といった「なぜ」「もし」の問いかけを意識的に行うことで、考える習慣を育む。
これらの工夫を取り入れることで、限られた時間の中でも子どもたちの思考力や対話力を育む哲学的なアプローチを実践することが可能です。
まとめ
小学校で「よいこと」「わるいこと」といった倫理的な問いについて哲学対話を行うことは、子どもたちが主体的な倫理観を形成し、多様な価値観を理解し、複雑な現実に向き合う力を育む上で非常に有効です。身近な事例を丁寧に扱い、子どもたちの声に耳を傾けながら、共に考えるプロセスそのものを大切にすることで、子どもたちは「答えのない問い」について考え続けることの面白さや大切さを学んでいくでしょう。
多忙な日々の実践の中で、全てを完璧に行うことは難しいかもしれません。しかし、少しずつでも哲学的な視点を取り入れた対話の機会を設けることで、子どもたちの内面に豊かな思考の芽を育むことができるはずです。この記事が、小学校教諭の皆様が教室で哲学対話を取り入れるための一助となれば幸いです。